歴史話2

歴史話2

前に常総地方が古くから常世の国と言われて、稲田が多くその米から地酒が造られたと書きました。

では、一人娘はどのような歴史経過をたどったか少し説明致します。

関東の河川改修は徳川家康が江戸に入るとすぐ開始され、利根、渡良瀬、鬼怒川の大改修工事は、稲作地帯と江戸への水運を作りあげ、鬼怒川は東北諸藩と江戸を結ぶルートとして重要になりました。

 

近代酒造業の流れには、地主兼営副業型酒造業と専業型酒造業があります。

地主兼営副業型は地主の副業として酒造業があり、東北地方を中心として、全国的に存在する地方の酒造業の類型、一人娘も地主兼営副業型です。

専業型酒造業は灘を典型とする酒造業で、生産力の高さと醸造技術を背景に清酒市場で独占的でありました。

北関東に関しては、酒造家の系譜は専業型酒造業には、滋賀県出身の近江商人と越後からの酒造移転または、越後杜氏や奉公人からの独立開業した新潟県出身者がいました。江戸時代 関東地方は幕府直轄領、寺社領、藩領が混在した地域であった為近江商人や新潟出身者が出店しやすかったとされています。

 

関東の酒造り職人の発祥は越後からの米搗き人足であろうといわれ、一人娘も新潟杜氏でした。蔵火災が文化2年(1805)なので、資料がないのですが、酒造りをしていた事から1805年を創業年としております。

菩提寺も資料紛失で、詳細がわからないのですが、駿河の国の住人与衛エ門との覚書があり、1650年に歿しておりますので、江戸幕府創生期に移り住んだと推察されます。石下は幕府直轄領でしたので、駿河徳川の江戸移動と一緒だったと思われます。

屋号は富士山、ふじやま 庭石に富士山の噴火石を大量に使用していることからも故郷への郷愁が強かったと伺えます。

 

酒造業を営むようになってからは、裏の鬼怒川を利用して舟「で江戸へ酒を運びました。

灘の下り酒に負けまいと試行錯誤して。。。。この辺からは資料が残されております。

当初からは、現在9代目与衛ヱ門となります。

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